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理事長の叙勲にあたり、在日中国人メディア『中文導報』の取材を受け記事になりました。

2020年05月19日
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日本医療国際化機構

『中文導報』2020年5月 第2期

4月29日、日本政府は2020年「春の叙勲」の受章者を発表した。中国本土出身で、日本に約40年滞在している蒋暁松氏が「旭日中綬章」を受章した。受章理由は、「日中関係の促進と強化、及び両国の相互理解に多大な貢献をした」という。日本政府は授与にあたり、中国政府に事前打診し、正式に承認が得られたそうだ。

日本の勲章制度は1875年に始まり、日本文化と歴史を広めるための制度として、今日まで続いている。最高位である「大勲位菊花章」と「桐花大綬章」は、通常、日本の内閣総理大臣や衆議院、参議院、最高裁判所の長を務めた日本人に贈られる。外国人に贈られる章には、「旭日章」と「瑞宝章」の2種類がある。「旭日章」は、特定の分野で特別な貢献や大きな成果を上げた人に授与するもので、更に大綬章、重光章、中綬章、小綬章、双光章、単光章に分かれるが、一方、「瑞宝章」は長年公共事業に従事し、成果を上げた者に贈られる。

授与は毎年、春と秋に皇居で行われる。内閣府勲章局の担当者が各省庁との連携で各分野のもっとも優秀な候補者を推薦・承認し、最終的には天皇により授与することになっているが、2020年春の授与式はコロナウィルスの影響を受け、例年どおりに開催することはできなくなった。

日中交流を熱心に推進 中国民間叙勲第一人者と称える

統計によると、1983年以来中国からの受章者は計45名おり、「旭日中綬章」以上の受章者11名の内、政府の要人や高官は8名のほかに、教育従事者は3名である。かつて廖承志氏(1983年)、谷牧氏(2008年)、陳錦華氏(2008年)、鄭必堅氏(2011年)は「旭日大綬章」が授与され、中国で著名な蘇歩青氏、雷任民氏、劉希文氏、肖向前氏、宋健氏、楊振亜氏、愈暁松氏、陳昊蘇氏らは「旭日重光章」が授与されている。今回、蒋暁松氏は民間人として「旭日中綬章」が受章されたが、前例のないことである。

蒋暁松氏は文化人、実業家、社会活動家であり、さらに「ボアオ・アジア・フォーラム」の提唱者、立案者でもある。ボアオ・アジア・フォーラムの第一回と第二回の理事会副理事長を務め、ボアオ・アジア・フォーラムのメインプランナーであり、推進者でもある。数十年来、日中交流に携わり、中日友好委員会中国委員、中国秘書長を歴任し、日中関係に多大な貢献を行ったことで両国より称賛を受け、両国間それぞれの時期においても重要な役割を果たしてきた。日中間においての蒋氏は、政府の公式担当ではない独特な存在である。

彼は過去を振り返った。1980年に初めて来日し、かれこれ40年が経って、世界を駆け巡ってきたが、主軸は常に日中間に置いた。さまざまな時代の日中関係においては数多く尊敬する先人や諸先輩方存在していたが、日中間多岐にわたる交流を促進させるために自分の限りある心力・能力・知力を如何によく発揮し、交流を潤うことができるかは常に私の課題であった。

受章後、蒋暁松氏は感想を述べた。本日、日本国政府より「旭日中綬章」をいただき、民間の中国人として大変光栄であり、誇りに思っている。これは、両国の関係強化と相互理解を深めるために長年にわたって取り組んできた私への両国政府の肯定であり、賞賛でもある。私は神に感謝し、今までの人生に感謝し、皆様にも感謝の意を表したい。

ボアオ・アジア・フォーラムを創設 20周年を迎え、アジアの象徴

1980年、蒋暁松氏は初めて来日し、映画やテレビの監督と制作にあたった。以来、映画やテレビ、日中テレビフェスティバル等多くの交流活動の成功に寄与した。1983年には中国のチベットを海外の撮影スタッフに完全に開放し、TBSテレビと共同で大規模なドキュメンタリー「チベット」を制作した。また中国の撮影チームを率いて、黄宗英 の同名のルポに基づき作成したテレビドラマ「小木屋」がニューヨーク国際映画祭のテレビ監督賞を受賞したことで、中国テレビ史上初めての国際賞受賞監督となった。その後「中国」や「故宮」等の大型ドキュメンタリーを企画・制作し、日本のNHKテレビでも放送され、大きな反響を呼んだ。

ところが、蒋暁松が日中間に腕を見せられる本当の舞台は海南のボアオである。

ボアオは、もともと漁船数隻とわずかな住人しかいなかった小さな漁村であった。世界から隔離された天然の美があったからこそ、蒋暁松氏の無限の想像力と創作力をかき立てたのかもしれない。蒋暁松氏はかつて、「私は知られていない空の地平線近くに一面の雲を見つけた。それがボアオの川、湖、海、砂丘であり、私の1992年であった。」と述べている。

1997年元旦、ある意味ではボアオに大きな影響を与えた一日とも言える。日本の元首相である細川護熙氏夫妻が蒋暁松氏夫妻に招待され、箱根の別荘でともに新年を祝った。蒋暁松氏はボアオへの思いや夢をご夫妻に伝えたところ、細川氏は「スイスのスキーリゾートであるダボスは世界経済フォーラムを開催することで有名であり、アメリカのリゾート地のアスペンはミュージックフェスティバルが有名である。ボアオ開発も観光やスポーツ又は会議と融合的に結びつけることができる。」と述べた。蒋暁松氏はオーストラリアの元首相であるホーク氏が友人なので、もし可能ならボアオ視察を一緒にしてはいかがと、細川ご夫妻に提案した。

その年の7月25日、蒋暁松氏はまず細川護熙氏一行と北京を訪問し、27日には北戴河で江沢民国家主席(当時)と会見した。28日、ホーク氏、細川護熙氏、蒋暁松氏とその夫人の方々はボアオで面会した。午後には完成したばかりの9ホールのゴルフ場でプレイした。元首相の2人は初対面でゴルフも初試合であったが、終始和やかなムードであった。

当時のボアオはまだ開発の初期であり、環境も整っていなかった。そのため、一行は蒋暁松氏の従業員宿舎に宿泊するしかなかった。その晩、蒋暁松氏は元首相お二人とその一行と一緒に万泉河のほとりでバーベキューをした。当時のアジアは金融危機に見舞われていたにもかかわらず、アジアには自分たちのプラットフォームや組織が存在していないことを考えさせられた。会談の中、見地の同じ3人が下記の意見に合意した。中国はアジアで唯一の国連常任理事国である。中国の中で最南端の緯度に属し、面積が二番目に広い島が海南であり、アジアの他の国々とも近い距離にある。しかも海南の「ボアオ」は「中立」を守れやすい場所であるので、ゼロから国際組織を作る理想な場所だ。細川氏は「蒋暁松氏はホストであるが、政府の役人ではないのが一番いい」と述べた。ホーク前首相はAPECの発起人であり、彼は「友人のフィリピンのラモス首相をこの会に加わることができるが、まだ在任中のため、来年の任期満了時に再度招こう」と提言した。

このように、まいた種は芽を出しはじめ、偉大な構想が静かに翼を広げ、世界に飛び立とうとしていた。

左から:ホーク氏、ラモス氏、蒋暁松氏がボアオにて

1998年6月にラモス大統領が退任し、細川護煕氏、ホーク氏、蒋暁松氏の3人がマニラに向かった。その後2泊3日の日程の中で、4人は様々な場面で意見交換し、さまざまな見識や希望も膨らんだ。それは「国際組織であるべきで、会議の場所だけではない」や、「会期と会場が保証された非営利非政府の組織であるべき」や、「政府・企業及び学者が交流する場所でもあるべきだ」とか。同時に、4人は位置づけや役割分担について検討を行い、自然と3人の前指導者は発起人となり、蒋暁松氏は実行推進者となった。

3日目、彼らはマニラのホテルで記者会見を行い、歴史的に意義のあるアジア・フォーラムを設立するマニラ宣言を発表した。その後、ラモス氏は2通の手紙を書き、1通は江沢民主席(当時)に、もう1通は当時の海南省長の汪嘯風氏に宛てたものであった。手紙の中で、アジアに独自の国際プラットフォームを構築する必要性と緊迫性があることを伝え、そのプラットフォームを ボアオに置くことを提案した。

蒋暁松氏はその後さまざまな細かい作業を開始した。

1999年10月8日、当時の中国国家副主席の胡錦濤氏は北京でラモス氏、ホーク氏、蒋暁松氏ら一行と会見した。胡錦濤氏は、中国はホスト国として原則的に同意と支持の姿勢を表明し、より広範なアジア諸国の参加を希望した。同年12月、26カ国の専門家や学者、前政府要人によるシンポジウムがボアオで開催された。2001年2月27日、中国の江沢民国家主席、マレーシアのマハティール首相、ネパール国王ビランドラ等を含むアジア太平洋26カ国の現職と前指導者が海南ボアオに集結し、ボアオ・アジア・フォーラムが正式に設立されたことを発表した。「ボアオ」というそれまでに海南人でさえも知らない人が多かった場所は、一夜にしてアジアの話題の中心となった。

蒋暁松氏は、ボアオ・アジア・フォーラ設立後、長年にわたりフォーラム理事会の副理事長を務め、中心的な役割を果たし、フォーラムの発展に全力を尽くし、多く貢献した。蒋暁松氏は、ボアオ・アジア・フォーラは中国と日本はいずれも欠かすことのできない存在であると述べ、日中の協力によりボアオ・アジア・フォーラムを作ったと言うこともできる。フォーラムはまた、日中関係を促進するための重要なプラットフォームともなり、この役割は永遠に続き、存在し続けるだろう。これまで、ボアオ・アジア・フォーラムには、日本の4人の首相または元首相がさまざまな形で参加している。1998年細川護熙元首相がフォーラムの発起人となり、2001年中曽根康弘元首相が来賓としてフォーラムに出席した。2002年には現職の小泉純一郎現首相がフォーラムの年次総会に出席し、基調講演を行った。2004年福田康夫氏は官房長を辞任してからの初の海外訪問をボアオに選び、蒋暁松氏の同行のもと視察を行った。福田氏は2012年から2018年まで、ボアオ・アジア・フォーラムの理事長を務め、在任期間中のパフォーマンスは素晴らしく、今日ではフォーラム諮問委員会の議長を務めている。

いまや、ボアオ・アジア・フォーラムはアジアのシンボルとなった。来年の2021年には、ボアオ・アジア・フォーラムは創設20周年を迎える。蒋暁松氏は、「私はボアオの一人の老兵として、フォーラムが20周年を迎えることに大きな達成感がある。まるで子供が20歳に成長したようで、ますます磨きがかかり、立派に変身したようだ。私はボアオに対して希望を持っており、情熱 が止まらず、多くの夢を持っている。ボアオは時代とともに突き進み、時代の発展と歩調を合わせ、アジアの問題に焦点をあて、さらにポジティブなエネルギーを見事に発揮することを確信している。

蒋暁松氏は「旭日中綬章」を受章した日に、ボアオ・アジア・フォーラムのアジアのボアオフォーラム事務局長の李保東氏から祝電をもらった。「フォーラムの創設者の1人として、フォーラムの発展と推進に心血を注ぎ、特に日本政府や企業のフォーラムとの連携に大きく貢献されました。来年はフォーラムの20周年であり、年次総会で一連の祝賀行事が行われます。来年の年次総会でお会いできることを楽しみにしております。この歴史的瞬間をフォーラムの家族と一緒に見守るとともに、フォーラムの今後の発展に向けて貴重なご意見やご提案をよろしくお願い申し上げます。」

ボアオ国際医療旅游先行区設立の促進 国務院により承認された唯一の「医療特区」

ボアオの事業はますます発展し、蒋暁松氏もその中で自分の位置を模索している。自分にとって最も適しているのは何か、人々に役立つことは何か、自分にしかできないことは何かと。フォーラムを設立した後、新しい課題を見つけた。それはボアオからそれほど遠くない「楽城」という所に環境保護と医療大健康をテーマとしたもう一つの作品の構想を練ることであった。

2009年4月、蒋暁松氏は「万泉楽城」の全体構想を海南省党委員会と省政府に提案し、当時の省の主要指導者に全面的に承認された。2010年2月22日、楽城開発プロジェクトの最初の作品であり、中核となるコンテンツの「中日合作太陽と水のモデル区プロジェクト(初期の名称)」が日本の東京国際文化会館でプロモーション会議を開催した。この活動について、駐日大使館は電報の形で中国に伝わり、プロジェクトの促進に重要な役割を果たし、政府と企業の効果的で補完的な協力が開始した。

推進の過程で、中国の代表的なシンクタンクである中国国際経済交流センターも招待され、「中日合作ボアオ楽城太陽と水モデル区戦略諮詢報告」を提出し、2011年12月29日に中央政府と関連部門に国際医療旅游先行区を促進するための提案を提出した。2012年1月、海南省人民政府の「海南万泉楽城国際医療旅游先行区の設立に関する伺い」が国務院に正式に報告され、2012年7月、11の省庁と委員会が共同で調査会を組織し、海南に赴き、ボアオ楽城国際医療旅游先行区プロジェクトについての調査研究を実施するための調査チームを編成した。2013年2月28日、国務院は海南洋浦港経済開発区と国際旅游モデル区に次いで、海南省に許可した3番目の公式文書として、海南省にボアオ楽城国際医療旅游先行区を設立し、9項目の政策を維持することを承認した。これは、これまで国務院により承認された国内で唯一の「医療特区」である。

蒋暁松氏が楽城プロジェクトを創設したのは、日中両国の間に持続可能な発展ソフトプラットフォームを構築したかったからである。そして環境保護と健康という2つのテーマを選択した。中国はすでに全面的に国民の健康レベルの向上を国家発展戦略の重点の1つとしているが、日本の医療健康レベルは世界的に評価されており、平均寿命、医療サービス、技術、その他の資源等の各指標はすべて世界をリードしている。日本の先進的な医療技術とサービスシステムを、中国の巨大な市場需要とドッキングさせ、医療健康分野のボアオモデルを構築すれば、大湾区、長江デルタを含む中国各地に放射状に広がるだけでなく、アジア諸国にも利益をもたらすことができる。そのため、国務院が文書を発行してから半年もたたないうちに、蒋暁松氏は直ちに日本に東京健康クリニックを設立した。東京の中心部に位置する六本木の六階建てビルで、蒋暁松氏が日本の医療資源の橋渡しを行っている。7年間にわたり、現在の東京健康クリニックは複数の診療科をカバーし、日本先端医療専門家チームを集約しており、専門治療や先行医療(予防医学)等の医療分野での優位性と実力は日本の上位に位置している。

十年が過ぎた今は、蒋暁松氏は自分の当時の構想や夢が次第に実現していることを非常にうれしく思っている。ボアオ楽城国際医療旅游先行区は数年の開発を経て、次第に形成され、すでに十数の医療機関が入居している。2018年10月、日本政府が唯一認めた官民一体の医療国際化協力に関する機関Medical Excellent JAPANと海南博楽城開発持株有限会社は海南ボアオで 日中医療協力を推進する「腫瘍医療関連施設群建設事業及び第三者医療事業」に関する覚書に署名した。蒋暁松氏は、医療旅游先行区が最終的に一面の森林や一本の巨木であっても、すくすくと成長し続けるだろうと確信している。

企業の董事長から機構の理事長へ 国際医療大健康事業の推進

蒋暁松氏はボアオに生涯の大半を一生懸命に捧げてきた。ボアオと日中関係の要素を組み合わせ、ボアオ・アジア・フォーラムの設立から医療先行区の設立まで、次々と素晴らしい作品を生み出してきた。おそらく彼にとって、生み出したのは商品ではなく作品だったのだろう。何十年もの間彼が企業経営というよりも、企業の形態とプラットフォームを用いて自分の経営経験をうまく運用して理想と願望を実現してきたのである。

近年、彼はさらに自己変革し、アップグレードし、董事長から理事長に転身した。彼をリーダーとする「日本医療国際化機構」は非営利の協会であり、中国と日本の医療健康ビジネスの推進を行うことになった。これは、彼の全面戦局の中に何が意味するのかというと、縦から横への戦略変更であり、彼の点、線、面の中では単なる姿勢、行動パターン、または角度の変換に過ぎないだろう。

2018年7月、ボアオ・アジア・フォーラムは新しい意味を持つ新商品を発表した。健康分野に焦点を当てたグローバル・ヘルスフォーラム(GHF)である。健康分野を専門的に行い、政治とビジネス、ハイエンドの対話と実際の協力を組み合わせたものである。包括的な権威のあるプラットフォームであり、ボアオの精神を継承することとなる。

最近、ボアオ・アジア・フォーラムは、疾病の予防と健康と安全の保護に関する国際社会との協力の観点から、2020年の年次総会の中止を発表した。コロナウィルスが猛威を振るっているが、ボアオ・アジア・フォーラムは年内にグローバル・ヘルスフォーラムを開催し、世界的に医療健康と公衆衛生の呼びかけを行う可能性もある。ボアオ精神は、今日のこの時代、この非常時に、特別な定義を与えられ、より大きな時代の使命を担うことになるであろう。その時には蒋暁松氏が登場するかもしれない。

企業の董事長から機構の理事長に転身したが、基本は変わることはない。主旨は一貫としており、熱意も変わることがない。今日の蒋暁松氏は依然として夢を追いかけており、終わりはなく、努力あるのみだ。

蒋暁松氏は中日共同によるコロナウィルスとの戦いを推し進めている。「青山一道,同担風雨」

蒋暁松氏の中日の友人の中にさらに2名の重要人物がいる。日本与党の自民党幹事長の二階俊博氏とアリババグループの馬雲氏である。二人は蒋暁松氏の紹介のもと、北京で数回面会している。

2月、中国ではコロナウィルスがもっとも深刻な時期であった。2月2日、二階俊博氏と馬雲氏は東京で面会した。馬雲氏は、二階俊博氏に日本で医薬品を調達できないかと打診した。中国で感染予防物資が不足しているためで、医療の最前線に物資を供給したいとのことであった。交渉の末、両者は「防護服」を供給することに決め、二階俊博氏は直ちに行動を開始し、1週間後の2月9日、最初の物資である124,200着の防護服が上海浦東空港に到着した。武漢および他の第一線の病院に送られることとなった。

3月、中国の感染状況が次第に改善されると、日本の感染が急激に拡大し、馬雲氏は蒋暁松氏との電話の中で、日本の感染状況や医療物資の状況について質問した。蒋暁松氏は二階氏に連絡後、馬雲氏に直ちに日本の状況を伝えた。馬雲氏及びその関連機関はまったく躊躇することなく、直ちに100万枚のマスクを調達し、数日後の3月6日に日本に到着した。これらのマスクは、当時感染が発生していた23の都道府県に配られ、第一線の医療機関、および感染リスクの高い機関に送られた。日本の機関は感謝状により感謝の意を表した。その後、馬雲氏は再び日本の高齢者や子供等体力の弱い方々に30万枚のマスクを寄付した。

4月、馬雲氏及びその関連機関は「コロナウィルスの予防と治療のマニュアル」を作成し、中国語版と英語版に加えて、日本語版も特別に作成された。彼の要求により、予防と治療のマニュアルの日本語版は、直ちに第一線の病院に送られ、大変好評を得て、日本の感染予防業務に大きな役割を果たした。

馬雲氏が日本に宛てた最新のレター

5月、日本はウィルスとの決戦時期に突入した。馬雲氏は、二階氏に対して、日本の医療機関に物資を再度寄付する意向を表明した。日本医師会の横倉会長と連絡を取り、二階氏が馬雲氏に確認した結果、寄贈物資はN95マスクが30万枚、医療用防護服が15万着である。横倉会長は以下のように述べた。日本の医療現場ではマスクや防護服が足りず、この度は3月の寄贈に引き続き、再度馬雲会長から医薬物資が送られてきたことに関し、感謝の言葉も見つからない。物資が到着したら、直ちに日本全国の医療の第一線に送りたい。

これら数回の中日協力の中では、蒋暁松氏が率いる日本医療国際化機構があり、馬雲氏や二階氏にはそれぞれ頼りになる共同の実務者推進者がいただけでなく、互いに信頼で結びついた橋渡し役の人物がいた。蒋暁松氏にとって、この二人の友人はともに巨人であり、言葉は通じないが、心が通じ合い、苦難の時に行動によって中日間の人と人の真情と厚情を浮き彫りにした。

二階俊博氏は1月末に「鳳凰衛視」のインタビューを受けた際、「日本は、中国が大変な状況に遭っているのを見ると、まるで自分の親戚や隣人が困難に直面しているようだ。日本は国を挙げて、中国を支援し、すべてが早く良くなることを信じている。」と述べた。馬雲氏は二階俊博氏への手紙にも「このマスクはアリババの気持ちだけではなく、多くの中国人の気持ちでもある」とも述べている。日本は今、感染に立ち向かう正念場であり、夜明けは間もなくである。勝利は近い。この時、全力で現場の医療スタッフを保護しなければならない。病院は戦場であり、医療スタッフはウィルスに立ち向かう戦士であり、彼らを守ってこそ、勝利の希望がある。

日本は物資の中に「山川異域、風月同天」という言葉を添えたが、馬雲氏は日本への物資の中に「「青山一道,同担風雨」という言葉を添えた。同じ漢字を使用する国同士、国と国、人と人の困難に立ち向かい、助け合う気持ちをもっとも称賛に値する形で表した。

中日公共の外交民間推進者名実ともに相応しく「旭日中綬章」を受章

蒋暁松氏の行動は、彼の卓越した想像力と思考による所が大きい。大局を見る目と非凡なる戦略を持ち合わせ、大変なアイデアマンである。形のないものを可視化にし、「石を金にする」特殊技能を持ちながら、常に控えめであり、名声や富を争うことはない。

蒋暁松氏には温厚で可愛い日本人の妻と娘がおり、日本人の奥様である向山徳子氏の内助の功により、日本社会との関わりも水を得た魚のように生き生きと行われている。ともにボアオ・アジア・フォーラムの立ち上げにも加わり、日中交流のためにWin-winのプラットフォームを構築している。このプラットフォームを構築する過程において、中日各界の重要人物とも直接接触や交流を行い、私益が挟まないので、淡々と人と人による信頼関係を築いている。

蒋暁松氏は以下のように述べた。「数十年の人生で、私は何が大海原で、何が小川なのか、はたまた、何が怒涛の大波で、何が水面のさざ波なのか、理解することができるようになり、また、さまざまな出来事を通じて困難や喜びを味わい、その中で、期せずして、日中関係の更なる発展に尽力することが私の終生の活動となった。これは宿命であり、使命でもあるのだろう。広い空の下、日中関係の『一衣帯水』の中でひたらす小さなオタマジャクシが動き回っているかのようだ。」 

略歴:蒋暁松

▪1951年11月上海生まれ。父の蒋君超は著名な映画監督。母の白楊は著名な映画女優。

▪1980年-1986年 日本のテレビ局で研修を行う(映像記録センターの牛山純一氏に師事)。制作に従事し、「中日テレビフェスティバル」を設立。

▪1985年 制作した「小木屋」(テレビ劇)が1985年ニューヨーク国際映画祭で監督賞を受賞。

▪1989年 暁奥公司を設立。

▪1992年 ボアオを初訪問。

▪2001年4月-2009年3月 ボアオ・アジア・フォーラ理事会の副理事長

▪2003年12月-2008年12月 新中日友好21世紀委員会中国委員、中国秘書長

▪2003年3月-2018年3月 第10、11、12回中国人民政治協商会議全国委員会委員、外事委員会委員

▪2005年 千博集団創設。博鰲禅寺建立。

▪2005年-2007年 「中華年・第9回世界華商大会」執行委員長

▪2018年3月 ボアオ・アジア・フォーラムの終身名誉会員

▪2020年4月29日 「旭日中綬章」受章

蒋暁松氏が受章する1週間前の4月22日は、彼の母親であり、著名な映画芸術家である白楊の生誕100周年であった。ウィルスのため、蒋暁松氏夫妻は上海で開催された記念イベントにオンラインで参加した。母親の偉業と人々から慕われたことに、息子として誇りに思うと同時に、母親もまた自分の行動と称賛に満足し、安心しているに違いない。

「中文導報」記者:楊文凱